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中世のクメール帝国

クメール朝クメール王国(カンボジア 9世紀)

ヤショーダラプラ朝クメール王国

この時代はクメール帝国初期とも呼ばれている。
802年頃、ジャヤーヴァルマン2世がシャイレーンドラ朝から解放し、プノン・クーレン丘陵で即位した。これがクメール王朝の始まりである。
この時代、王都はハリハラーラヤ(アンコール郊外)→ヤショーダラプラ(アンコール)→チョック・ガルギャー→ヤショーダラプラ(アンコール)と転々としていた。
950年頃、スーリヤヴァルマン1世がラヴォー王国を占領した。
1010年から約十年間、ハリプンチャイ王国の攻撃が続いたがこれを撃退、そして1023年にクメール軍はハリプンチャイ王国のラムプーンを攻撃した。

1113年、スーリヤヴァルマン2世が、西隣のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人、南隣のチャンパ王国と戦い、王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部におよんだ。彼は寺院建築に熱心でアンコール・ワットなどのヒンドゥー教寺院を建築した。
しかしスールヤヴァルマン2世の死後は王位を巡り争いが続き、1177年にはこれらの混乱に乗じてチャンパ王国の大軍がクメールに侵攻、都であったヤショダラプラを破壊した。
アンコール朝クメール王国(1181〜)
この時代はクメール帝国前期とも呼ばれている。
1177年に軍隊を連れてクメールに帰国したジャヤーヴァルマン7世はチャンパ軍を撃退、戦争で荒廃したアンコール都城を復興した後、1181年に彼は王位に就いた。

1190年に再度カンボジアに侵入したチャンパを撃退、チャンパ領に進攻し、チャンパの首都ヴィジャヤを占領する。

新たに建設された王宮であるアンコール・トムでは防衛に重点が置かれ、高さ約8mの城壁と幅約100mの外濠が設けられた。
チャンパ軍から略奪を受けた寺院を再建したり、アンコール・トムの人口増加に対して、東西バライの北に新たなバライを建設した。
壮麗なアンコール・トムはジャヤーヴァルマンの信仰心の表れとも言える。

首都を中心とした王道に沿って102の病院を建設し、主要な道路には16kmごとに宿駅が設置された。
整備された道路と石橋は地方で起きた反乱の鎮圧を容易にし、民衆の生活にも役立った。

しかし、寺院の建立のために民衆に重税と労役が課され、寺院で執り行われた祭礼には多量の費用を要した。加えて軍事賦役により、国の弱体化が進行した。
1220年にジャヤーヴァルマン7世が死去するとクメールの国力が衰退していくかのように思われた。
しかし、クメール王朝はここで歴史の転換点を迎え、更なる発展を遂げることとなる。

カヴァン朝クメール帝国(五賢王時代)

この時代は五賢王時代とも呼ばれ、クメール帝国はこの時代にインドシナにおける覇権を確立した。
カヴァン1世の治世

1220年に即位したカヴァン1世(架空の人物ですご了承ください)には謎が多く、その出自や即位の経緯も不明である。
カヴァン1世は農業を重視し、堤防の建設など自然環境を改良する開拓を推進した。
国によって食糧の増産が推奨され、未開の土地の開拓と並行して灌漑、水利工事が実施された。
堤防、運河の工事が国によって推進され、その結果13世紀よりメコン川水系では夏季冠水地帯の水田化が進み、開発に伴って旱魃よりも洪水の被害が多くなった。
また中国の科挙を模倣した制度を作り、有能な人材登用や諸制度の整備など、王朝の土台を固める事に務めた。

また、徴兵は少数精鋭を選抜する方針に拠って実施され、平時の兵士は農耕に従事していた。

カヴァン1世の治世は58年間におよび、歴代クメール王の中でも最長を記録している。
これらの改革によりジャヤーヴァルマン7世の寺院建立による財政難を克服し、更に衰退した国力を盛り返すことに成功した。
クァール2世の治世

1278年に即位したクァール2世は先王の政策を引き継ぎ、農地の開墾と治水工事を推進した。
1283年にクビライのモンゴル帝国による侵攻を受けたがこれを撃退、有利な条件で和を結んだ。
元との講和前後、クァール2世はラオス北部の中小国を交渉や武力で勢力圏に組み込んだ。

1307年にチャンパ王国(ベトナム中部で細々と存続していた)で王位継承を巡る内紛が起こるとこれに乗じてチャンパ王国を完全に編入した。

クァール2世は貧民の救済も行い、国民からの支持を集め国家は安定、国力は更に伸びた。
クァール2世の治世は45年ほど続き、1323年に死去するまで有能な王であった。
セナヌク3世の治世
1323年に即位したセナヌク3世も基本的な政策は先王と変わらなかった。
しかしセナヌク3世は先王たちに劣らない数々の政治的・軍事的偉業を成し遂げた。
1327年にはスコータイ王朝の侵攻を受けたがこれを撃退、これ以降スコータイ王朝では各地で離反が相次ぎ、セナヌク3世は彼ら離反者を懐柔して勢力圏に組み込み、そして1337年にはスコータイ王朝の首都スコータイを占領、旧スコータイ王朝領を完全に編入した。

一方北東の隣国、陳朝大越では皇帝、貴族、官吏の腐敗が著しく、さらに元の侵攻に対する徹底抗戦で社会が疲弊していた。大越では14世紀半ばより農民や奴婢の反乱が頻発し、セナヌク3世は度々これを支援し後の大越編入の布石となった。

この頃中国から火薬が伝来し、セナヌク3世は火薬を利用した銃火器の製造を開始し、独自に火器の改良を続けた。

セナヌク3世は1354年に死去し、その治世は31年であった。
メェーレケ1世の治世

1354年にメェーレケ1世が即位した時、クメール帝国は先王3代に渡る改革で農地は大幅に拡大し人口も増えており、東南アジアの大国となっていた。
メェーレケ1世は銃火器の配備を進め、銃火器専門の「火兵隊」という兵科を創設して軍備増強に努めた。
また銃火器に必要な銅を確保するため、従来鋳造されていた銅貨に変えて紙幣を発行した。

1363年に西隣のペグー(ハンターワディー)王朝で大規模な反乱が発生すると、好機と見たクメール帝国はこれに侵攻、首都マルタバンを占領しペグー王朝を降伏させた。
そして1382年にはタイ北部のラーンナー王朝を懐柔した。クメール帝国の統治方法は、必ずしも軍事力だけに物を言わせた強権的な政治ではなかった。
帰順した国主には基本的に今までと同じ統治を認め、副王として王朝の存続を許された。

メェーレケ1世は1392年に死去し、その治世は38年であった。
カヴァン6世の治世
カヴァン6世は1392年に即位した。基本的には先王の政策を引き継いだが幾つかの改革も行った。
具体的には有能な人材の登用、軍事力の強化、文芸奨励、戸籍制度の導入などである。

1399年、陳朝大越で大規模な反乱が発生した。大越では皇族間の内部抗争や民衆の反乱が度々起こっていた。
クメール帝国はこの反乱を支援する形で大越に侵攻、首都・昇龍を占領、名ばかりの皇帝を擁立し勢力圏に組み込んだ。
また1428年にはミャンマーのアヴァ王朝を地方領主の懐柔によって滅ぼしこれを併合した。
これによりベトナムからミャンマーに至るまでの大部分が平定され、クメール帝国に安定がもたらされた。
カヴァン6世は1437年に死去し、その治世は45年であった。

近世のインドシナ

中期クメール帝国

カヴァン6世の死後も比較的安定した時代が数百年ほど続いた。
この時代の領土拡大として、セナヌク8世が1502年にマラッカ王国を降伏させ、マレー半島全域とスマトラ島中部を新たに領有した。

そして1509年にポルトガル遠征隊がクメール帝国に初めて到着し、クメール帝国はポルトガルに交易と商館の建設の許可を与えた。
また16世紀後半にはポルトガル人技術者の援助を受け、青銅製の大砲を製造した。

後期クメール帝国

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